口座を開いて半年放置。48歳、ようやく投資を始める

令和8年9月27日(日)

 

海外在住48歳、独身。

今さらながら、我が家の財政を見直しています。

「我が家」と言っても一人暮らしなので、家計会議の参加者は私ひとり。
議長も私、書記も私、そして都合の悪い数字を見つけたときに目をそらす係も私です。

そんな私が、最近になって銀行口座を整理しています。

 

ここしばらく、私が利用している銀行では、CD(Certificate of Deposit/定期預金)よりSavings(普通預金)のほうが金利が高い状態が続いています。

それは分かっていました。

分かっていたのです。

なのに、無精者の私は、CDが満期を迎えるたびに、

「これ、解約してSavingsに移したほうがいいよね」

と思いながら、なかなか動かない。

そして満期が来ると、自動更新。

「ああ、また更新されちゃった」

と思いながら、そのまま。

また満期が来る。

「今度こそ解約しよう」

と思う。

そして、また自動更新。

そんなことを繰り返しながら、気がつけば10年くらい経っている気がします。

窓問題しかり、私が思いついてから行動に移すのに要する時間は10年単位のようです。

 

そんなCDのひとつが、先日ようやく満期を迎えました。

金額は$5,000ちょっと。

今度こそSavingsに移したのですが、せっかくなので、以前から気になっていた「投資」というものをやってみることにしました。

 

そもそも私は、株に対してあまりいいイメージを持っていませんでした。

小さい頃、実家の蔵には古い食器などの割れ物があり、それを包むのに、昔の証券がたくさん使われていました。

昭和の大恐慌で、文字どおり紙切れになってしまった五十円、百円……。

もちろん、子どもだった私には、それが何を意味するのかなんて分かりません。

ただ、薄暗い蔵の中で、かつてはお金としての価値を持っていた紙が、今は古い食器を包んでいる。

その光景が妙に印象に残りました。

そして、その紙には、大祖父母の怒りや悲しみまで浸透しているような感じがした。

本当にそうだったのかは分かりません。

子どもの私が勝手に感じ取っただけなのかもしれない。

それでも、その頃の私は、

「株って、怖いものなんだ」

と思っていたのでした。

 

そんな私ですが、アメリカで最初に就職したときから、401(k)を続けています。

開設して、もう20年。

こちらは給与から天引きされたお金が、指定したところに投資されていく仕組みです。

なんとなく始めて、そのまま続けてきた。

そして最初に就職した会社を辞めたのが10年前。

つまり、その401(k)には、この10年間、給与天引きによる新しい入金はありません。

それでも。

久しぶりに残高を見ると、上がったり下がったりを繰り返しながらも、ちゃんと育っている。

さすが複利の力。

「株って怖いもの」という私のイメージが、少しずつ変わっていきました。

株のイメージアップである。

 

もちろん、投資にはリスクがあります。

短期的には増えることもあれば、減ることもある。

そんなことは頭では分かっていました。

でも、20年続けている401(k)と、銀行から届くStatementを実際に見比べてきたことで、ようやく自分の中でも実感できるようになりました。

もっと若いときから、投資について勉強しておけばよかった。

そう思います。

でも、「もっと早くやればよかった」は、「今から始めない理由」にはならない。

そう思って、今さらながら勉強も兼ねて、自分でも投資を始めてみることにしました。

 

口座を開いたのは、春先。

Charles Schwabで投資口座を開設しました。

……開設しました。

開設しただけです。

そのまま半年弱、放置。

口座を開いただけで、なんとなく仕事をした気になってしまった。

私の「そのうちやる」は、CDだけではなかったようです。

投資先を決めていないお金は、現金のまま口座に残ります。

そして、その現金につく利子は、月々ほんの数セント。

数セント。

これならSavingsに置いておいたほうが、まだいい。

ようやく重い腰を上げました。

 

今回は「勉強も兼ねて」が目的です。

401(k)と同じようなインデックスファンドにそのまま入れるのではなく、もう少し自分でも考えてみることにしました。

とはいえ、$5,000ちょっとで個別企業の株をいくつも買って分散するほどの額でもない。

そこで、個別企業ではなく、特定のセクターに投資するETFを選びました。

まずは、自分のお金を実際に市場に置いてみる。

教科書を読むだけでは分からないことも、実際にやってみれば少しは分かるかもしれない。

そんな気持ちです。

 

そして。

最初に投資した金額は$5,588。

それが1週間後には、$5,639になっていました。

$51増。

イェイ。

 

……と、喜んだところで、ここで一度、冷静になります。

1週間で$51増えたからといって、このままずっと増えるわけではありません。

反対に、$51くらいなら、あっという間に減ることもある。

投資とは、そういうもの。

なので、一時のアップダウンにはあまり動揺せず、長期的な視点で育てていきたいと思います。

 

20年続けてきた401(k)も、10年間新しい入金がなくても、上がったり下がったりしながら、ちゃんと育っていました。

私も投資も、いきなり立派にはならない。

48歳からの投資生活。

遅いのかもしれないけれど、始めたのが今日なら、少なくとも昨日よりは一歩先にいる。

そう思って、気長に付き合っていこうと思います。

 

そしていつの日か、子どもの頃に蔵で見た、あのたくさんの証券を思い出して、

「そういえば、あれが私の投資人生の原風景だったのかも」

と笑える日が来たらいい。

その頃には、私のお金も少しは立派に育っていてほしいものです。

なにしろ、育て始めるまでに10年かかりましたから。

気長に、でもちゃんと見守っていこうと思います。

 

                (チャッピー画伯作)

10年放置した窓問題、ようやく解決しました

令和8年9月5日(土)

 

長らく放置されていた、我が家のベランダへ続くガラス戸の Window Treatment(窓まわり)問題。

以前はブラインドが付いていました。

ブラインドを開けると、ご近所さんのリビングがよく見える。
ブラインドを閉じると、今度は光が入らない。

どちらかを取れば、どちらかを失う。

なかなか人生の縮図のような窓だった。

「そこそこのプライバシーを確保しながら、ちゃんと光も通してくれるものがいいなあ」

そう思い始めてから、約10年。

……10年(!!)。

 

今回、ベランダの工事をすることになり、そのタイミングでブラインドが外されました。

「これはいい機会だ」

そう思ったわけです。

 

ただし、工事が入ったのは6月の頭。

そこから「いい機会」を実際の行動に移すまで、約2か月…

 

その間、窓には暫定処置としてゴミ袋を貼っていました。

プライバシーは守られる。
光も入る。

これが意外と私の条件を満たしていたのです (*^_^*)

それで、「今だけですから」という顔をしながら、2か月が過ぎた。

       

            スラムすぎる外から見た我が家のベランダ

       いつ、ご近所さんから苦情が来てもおかしくない状況でした… (^_^*)

 

さすがに、遠方から友人が遊びに来ることになり、

「ゴミ袋を貼ったリビングで迎えるのはどうなのか」

という、ごく普通の判断力がようやく働きました。

結局、人間を動かすのは自発的なやる気ではなく、外的要因なのかもしれません。

 

ローマンシェードにするか。

すりガラス風のフィルムを貼るか。

レースカーテンにするか。

候補を並べてみたものの、私にとってはここからが本番。

決断につぐ決断。

 

具体的なビジョンを持っている人なら、楽しい時間なのかもしれません。

でも、ぼんやりとした希望しかない私には、選択肢が増えるほど疲れていく。

「なんとなく、こんな感じ」

という曖昧な希望を抱えたまま、最終的には掃除がいちばんラクそうな、すりガラス風フィルムに決めました。

掃除のしやすさ。

48歳にもなると、「素敵」より「ラク」が勝つ場面が、静かに増えていきます。

 

そして次の問題は、フィルムの模様。

また決めるのか。

そう思いながら、だいたいの目安だけ決めてホームセンターへ行きました。

 

そこで最初に目に入ったのが、「Rice Paper」模様。

障子風、ということなのだろうか。

……何だか、いいじゃない。

あれこれ比較し始める前に、「最初にいいと思ったものを選ぶ」という、今回の私にしては珍しく潔い決断。

 

そして、いざ作業開始。

これが思っていたより、ずっと簡単に終わりました。

10年間も「どうしようかな」と考えていたのに。

       

        プライバシーなし → プライバシーと光の確保 ٩( ᐛ )و

            

                近くで見るとこんな感じ

 

こうして、我が家の窓問題はひとまず解決。

ご近所さんのリビングは見えない。

でも、光はちゃんと入ってくる。

そして何より、ゴミ袋ではない。

それだけで、リビングが急に「ちゃんと暮らしている人の家」になった気がします。

 

しかも今回、フィルムが少し余りました。

そこで、ついでに、ずっと気になっていた、お手洗いの窓のブラインドも取り外すことにしました。

こちらもブラインドを外して、余ったフィルムをぺたり。

 

すると。

お手洗いが、びっくりするほど明るくなりました。

 

        

                                                              ビフォアー → アフター

                                             写真では暗くなったように見えるけれど、

                              普段ブラインドを開けることがなかったのでいつも暗かったです

                 そして何よりも掃除がラクになった

 

「もっと早くやればよかった」

そんなことばかり言っている気もしますが、今回は本当にそう思う。

窓から入る光ひとつで、こんなに印象が変わるものなのですね。

しかも、余ったフィルムでできたので、なんだか得した気分。

 

10年越しの窓問題がひとつ片づいたと思ったら、ついでに、もうひとつ気になっていた場所まで明るくなった。

重い腰を上げると、たまにはいいことが連鎖するらしい。

10年かかったけれど。

2か月、ゴミ袋も貼っていたけれど。

終わってみれば、案外あっさり。

 

そして、窓が明るくなると、気持ちまで少し明るくなる。

人生にはきっと、もっと早く片づければよかったことが、まだいくつかある。

……でも今はあまり考えないことにします。

とりあえず今日は、明るくなったリビングとお手洗いを眺めて、

「これでよし」としておこう。

次の10年越し案件は、またそのうちに。

犬2匹と私。本を読むだけの、ちょっと贅沢な一泊

令和8年8月23日(日)

 

知り合いが、1週間ほど家を空けることになりました。

ところが、金曜日の夜だけドッグ&ハウスシッターが見つからない。

そこで、非リア充、リアルに暇な私に白羽の矢が立ちました。

 

「金曜の夜、予定ある?」

こういう質問をされると、一瞬だけ考えるふりをする。

ない。

予定がないことを、あまりにも即答するのも、なけなしのプライドが傷付くので、ほんの数秒、間を置いてみたりするのだけれど。

 

結局、うちのお嬢さんを連れて、一晩だけ知人宅で過ごすことになりました。

ホストのいない他人の家で過ごすのは、ホテルに滞在するのと少し似ています。

ただし、フロントもルームサービスもない。

犬はいる。

しかも、うちの犬だけでなく、よその家の犬もいる。

 

一泊だけなので、私自身の荷物は最小限です。

替えの衣類、基礎化粧品、本。

そして、お嬢さんのエサやら何やら、お泊まりセット。

 

知人宅にはケーブルテレビもありました。

なんという贅沢。

普段テレビをほとんど観ないので、「今夜は久しぶりにテレビ三昧というのもいいかもしれない」と、少し期待していたのです。

ところが、こういうときに限って観たい番組に巡り合わない。

チャンネルを変えては、

「うーん」

また変えて、

「これでもない」

そのうち、何を観たいのか自分でも分からなくなりました。

 

結局、本を開く。

犬たちはそれぞれ落ち着く場所を見つけ、私はソファで読書。

すると、夜の長いこと。

 

普段の私は、金曜日の夜ともなると、特に出かける予定があるわけでもないのに、気がつけば夜中の2時、3時。

SNSを少し見る。

ネットを少し見る。

「もう寝よう」と思う。

また少し見る。

そして気がつけば深夜。

 

人間とは、なぜ寝る直前になると、急に世界中のどうでもいい情報が気になり始めるのだろう。

ところが、知人宅では12時を少し過ぎたころには消灯、就寝。

静かな家。

スマホも特に見る理由がない。

犬たちも、すでに寝る気満々。

その空気に引っ張られるように、私も寝たのでした。

 

そして土曜日の朝。

自然に目が覚める。

早起きというほどでもないけれど、いつもよりずっとまともな時間です。

起きても、特にすることがない。

なんという贅沢。

 

のんびり犬たちと散歩に出かけ、帰ってきてコーヒーを淹れる。

次のシッターさんが来るまで、また本を読む。

ただ、それだけの時間。

 

少し前、職場でこんな話を聞きました。

彼女は毎年、秋に女友達5〜6人で集まり、週末だったか、1週間だったか、バケーションハウスを借りるそうです。

そして、それぞれが本を持ち寄り、とにかく読む。

読むための休暇。

なんとも大人っぽい遊びである。

観光名所を回るわけでもなく、買い物に行くわけでもない。

みんなで同じ空間にいて、それぞれ好きな本を読む。

なんだかいいなあと思った。

 

今回、図らずも知人のドッグ&ハウスシッターをすることで、私なりの小さな読書バケーションを体験できた気がします。

たった一晩。

しかも犬のお世話付き。

いや、自分の犬のお世話も含めると、犬のお世話は二重。

それでも、いつもの家とは違う場所で、いつもと違う夜を過ごすだけで、時間の流れ方が少し変わる。

 

スマホをだらだら見る代わりに本を読む。

夜更かしする代わりに寝る。

朝になったら犬と散歩する。

それだけのことなのに、なんだかちゃんと生活したような気がしました。

 

もちろん、理想を言えば、

家の断捨離をして、

デジタルデトックスもして。

自宅でも、こんなふうに静かで贅沢な夜を過ごせるようになるのが一番いいのかもしれません。

わざわざ他人の家に行かなくても。

 

でも今回、少しだけその予行演習ができた。

「こういう時間、悪くないな」と思えただけでも、ちょっとした収穫です。

 

……と、ここまで書くと、帰宅後もそのまま読書に励み、静かな土曜日の夜を過ごしたようですが。

現実はそう甘くない。

帰宅した昨日の夜には、しっかりSNSをずるずる見続けていました。

やはり、デジタルデトックスへの道は遠い。

 

                 チャッピー画伯作

 

友人は月300ドル、私は無料。家事代行の話から考えたこと

令和8年8月15日(土)

 

昨日は少し長めの昼休みを取って、ダウンタウンで元同僚とランチに出かけました。

在宅勤務の日に、わざわざ職場から数ブロックのところまで出かけるというのも、よく考えればちょっと不思議な話ではある。

でも、金曜日はなんとなく気持ちに余裕がある。
普段は見ることのない、ダウンタウンの「金曜日の顔」を眺めながらランチをするのも悪くない。

……まあ、いつもと特に変わらなかったけれど。

 

彼女と会うのは、彼女が4月中旬に転職して辞めて以来、初めて。

彼女の新しい仕事の話。
私の5月の一時帰国旅行の話。
そして、もちろん職場のゴシップ(と呼んでいいのか、近況報告と呼ぶべきなのか微妙なところ)。

久しぶりなので話は尽きない。

 

彼女今回の転職でお給料が結構上がったそうだ。

そのおかげで、以前から気になっていた家事代行サービスを始めたという。

隔週だったか、月に2回だったか。
1回150ドル、月300ドル。

 

は一児の母である彼女にとっては、

「マジでこれが一番有意義な300ドルの使い方だわ。」

ということらしい。

家事代行を頼むようになって、生活がかなり楽になったそう。

私はそれを聞いて、思わず食いついた。

 

「月2回のコミットメントで300ドルなら、いい副業じゃない?」

もちろん、家の大きさにもよる。

家中のほこりを払って、掃除機をかけて、必要ならモップもかける。
あとはお風呂とトイレ。

掃除代行のビジネスにするなら、保険やら何やら、素人には見えない経費もあるだろう。
実際に手元に残る金額を時給換算したら、どのくらいになるのかは分からない。

 

でも、それにしても。

「っていうか、それ、私すでに(不定期で)リタイアした年配のご近所さんに無料でやってあげてることなんだけど!」

気がつけば、私はちょっと興奮気味に話していた。

…まぁ、正確に言えば、お金はもらっていない。

掃除をした日は、ご飯をご馳走になったりするので、完全な無料奉仕といういわけでもない。

お金の代わりに、温かいご飯。

これはこれで、悪くない取引だと思っている。

 

同じ「掃除」という行為でも、立場が違えば見える景色がまったく違う。

彼女にとっては、月300ドルを払って家事を外注することで、時間と気力を買っている。

私にとっては、誰かの家を掃除することが「ちょっとした親切」であり、そのお礼にご飯をご馳走になる。

 

使役する側と、される側。

同じ掃除なのに、発想がこんなにも違うとは。

そんなことを考えながら食べた、金曜日のサンドイッチ。

 

ちなみに私は、掃除をしてあげているご近所さんから、一度もお金をもらったことはない。

……でも、掃除の後に出てくるご飯は、けっこう楽しみにしている。

私は、お金ではなく、別の通貨で働いているのだろう。

 

それでも私は、家事代行の話を聞いて、

「月2回で300ドルなら、いい副業じゃない?」

と考えていた。

 

                 チャッピー画伯作

 

「出社義務」より強かったもの。ポートランドの熱波

令和8年8月9日(日)

 

ポートランドの夏は、基本的に過ごしやすい。

「ポートランドの夏は快適ですよ」なんて言うと、ただの自慢に聞こえるかもしれない。

たしかに、湿度が低く、カラッとしていて、朝晩は涼しい。日本の夏を知っている身としては、「夏って、こんなに人間に優しい季節だったっけ」と思うこともある。

 

ただし。

熱波が来なければ、の話。

ひとたび気温が上がると、話は少々変わってくる。

 

というのも、ポートランドは暑さ対策が日本ほど充実していない。

まだ冷房のない家も珍しくないし、冷房があったとしても、我が家のような「ないよりはマシ」タイプだったりする。

我が家の冷房は、室外機と一体になったタイプ。

稼働中はそれなりにうるさい。

そして、稼働している間は寒いくらいなのに、設定温度に達して止まると、次に動き出すまでに「まだ大丈夫」と判断されているのか、こちらが「いや、もう十分暑いです」と訴えたくなる頃まで再稼働しない。

温度調節というものを、あまり得意としていない。

しかも、部屋全体をまんべんなく冷やすというより、冷風の当たるところだけが妙に涼しい。

なんというか、安いモーテルにありそうな冷房。

「ないよりマシ」とは、まさにこのこと。

 

日本でよく見るダイキンや三菱のような、静かで、部屋全体をじわっと快適にしてくれるエアコンは、新築のアパートなどでは少しずつ見かけるようになってきた。

ただ、あくまで私の個人的な印象だけれど、まだまだ「冷房にそこまでお金をかけられる人のもの」という感じがする。

10年ほど前に我が家も設置を検討して、見積もりを取ったことがある。

そのときで工事・設置費込みで5,000ドルから、だったと記憶している。

10年前で5,000ドル。

今はいったいいくらになるのだろう。

考えるだけで、こちらの体温まで少し上がりそう。

 

そんなポートランドの夏。

熱波が来ると、俄然ありがたくなる場所が職場である。

普段は「オフィス、寒いんですよね」と文句を言っている。

上着を羽織り、ひざ掛けをかけ、「もう少し温度を上げてもらえませんか」と言っている。

それなのに、熱波が来た途端、その寒さがありがたい。

いや、ありがたいどころか、もはや文明の恩恵。

神様からの贈り物。

 

しかも、冷房代を自分で払わなくていい。

これも大きい。

我が家でエアコンをつければ、快適さと引き換えに電気代という現実がやってくる。

会社なら、涼しい。

仕事もできる。

そして電気代は、少なくとも私個人の請求書には載ってこない。

最高じゃないか。

 

ちなみに、私の職場は火曜日と水曜日が出社義務の日。

普段は、この「出社義務」というルールがなかなか面白い。

何かしら理由をつけて出社しなかったり、なんとなくうまく誤魔化して在宅勤務に持ち込んだり。

「出社義務」と言われているのに、どこか「ルールは破るためにある」とでも言いたげな空気が、ないこともない。

 

ところが先週。

猛暑注意報が出ていた火曜日と水曜日。

いつもよりオフィスの人口密度が高かった。

「あれ? 今日、こんなに人いたっけ?」

と思うくらい。

いつもなら出社したがらない人たちが、誰に言われるでもなく、続々と出社してくる。

出社義務だからではない。

涼しいから。

理由が明快。分かりやすい。

 

会社のルールにはあれほど自由な解釈を加えるのに、気温には誰も逆らわない。

人間、自分が感じる不快感には正直です。

マザー・ネイチャー最強である。

 

普段は「家で仕事できるんだから、わざわざ会社に行かなくてもいいじゃない」と思っている人たちが、熱波が来た途端、自発的にオフィスへ向かう。

会社としては、まさかの「猛暑による出社率アップ」。

働き方改革も、ハイブリッド勤務も、社則も、上司のお願いも。

最終的に人を動かすのは、室温のようです。

 

そう考えると、先週のオフィスは、仕事場というより避暑地だった。

そして私は、普段なら「寒い、寒い」と文句を言っている冷房に感謝しながら仕事をした。

人間というのは、勝手なものである。

でも、たぶん会社のほうも同じことを思っている。

「暑い日は、みんな素直で助かるな」と。

 

これ、アメリカの職場あるある……なのかしら。

 

             

           普段はお腹が冷えるのを嫌うお嬢さん。

     先週ばかりはさすがに冷却ジェルシートにお世話になっておりました。

 

5年ぶりの連絡と、人生の途中で立ち止まる時間

令和8年8月2日(日)

 

先日、以前通っていた習い事で一緒だったTさんから久しぶりにメッセージが届きました。

友人と呼ぶには少し照れくさいけれど、会えば自然に話ができる。習い事のイベントなどで顔を合わせれば、お互いの近況をなんとなく知っている。

そんな、ちょうどいい距離感の人でした。

最後に会ったのは、たぶんコロナ禍の少し前。

気がつけば、5年近く会っていませんでした。

 

久しぶりの連絡ということで、近況報告でも届いたのかなと思って開いたメッセージ。

そこに書かれていたのは、思いがけない言葉でした。

「近いうちに離婚することになりそう。」

 

思わず、えっ、と声が出ました。

というのも、私の中での彼女とご主人の印象は、とても仲のよい夫婦だったからです。

ご主人は習い事関係のイベントにも参加していて、ふたりでいる姿を何度も見ていました。

私の目には、穏やかで仲睦まじいカップルに映っていました。

 

もちろん、人の家庭のことなんて外から見えるものがすべてではありません。

頭では分かっています。

 

人間というのは面白いもので、分からないことがあると、つい理由を探したくなるらしい。

実際に会うまでの間、私は勝手に想像していました。

きっと、あのことが原因だったのかな。

もしかしたら、以前のあの出来事が積み重なったのかな。

……完全に部外者なのに、頭の中では勝手に夫婦問題調査会議が開催されていました。

議長も私。

しかも、証拠は何ひとつありません。

 

先日、久しぶりに会って、一緒に夕食をしました。

そこで話を聞いてみると、私の推理は見事なくらい外れていました。

それはもう、「何を推理していたの?」というくらいに。

 

やっぱり、人のことは分からないものです。

いや、正確には、人は外から見える部分だけでは決して分からないものなのだと思います。

 

彼女は現在、離婚に向けて別居中。

その時間を、自分自身を見つめ直す期間にもしたいと話していました。

そして、少し疲れた様子で、

「以前の自分が何を好きだったのかも思い出せない。」

と言っていました。

 

その言葉を聞いたとき、私はすぐには返事ができませんでした。

「大丈夫だよ」と簡単に言える話ではないし、「分かるよ」と言ってしまうのも違う気がしたからです。

彼女が経験していることの重みは、私には想像することしかできません。

ただ、その言葉は心に残りました。

 

以前、私は職場の福利厚生で利用できるカウンセリングを受けたことがあります。

私は人事の仕事をしていて、福利厚生の制度を担当する立場でもあります。

社員に案内している制度だけれど、実際に利用するとどんなものなのだろう。

そんな興味もあり、一度自分自身が利用者になってみようと思ったのです。

そこでカウンセラーから

「あなたはWant(自分がしたいこと)よりも、Should(こうするべき、こうあるべき)で話すことが多いですね。」

と言われました。

その言葉は、思った以上に私の中に残りました。

 

考えてみれば、私は「やりたいこと」よりも、「やったほうがいいこと」を優先して考える癖があったのかもしれません。

もちろん、Shouldが悪いわけではありません。

仕事でも生活でも、責任を持つことは大切です。

でも、ときどき「私は本当はどうしたいんだろう」と、自分のWantに耳を傾ける時間も必要なのだと思います。

 

それ以来、小さなことでも意識するようになりました。

今日は何を食べたいのか。

どこへ行きたいのか。

これからどんな時間を過ごしたいのか。

そんなところから。

 

ちなみに、そのカウンセリングはその後続きませんでした。

というのも、ある日カウンセラーに

「前回言っていただいたことがすごく心に残ったので、これからはWantを意識してみたいと思います。」

と伝えたら、彼女は、さらりと

「自分が何に集中したいか見つけられたのなら、もうカウンセリングは必要ないわね。」

と。

……まさかの、先生からの卒業宣言。

 

もう少し通うつもりだった私は、少しだけ拍子抜けしました。

でも、今思えば、とても潔い終わり方だったのかもしれません。

答えをもらいに行ったつもりが、自分で考えるきっかけをもらって帰ってきた。

そんな感じでした。

 

Tさんの正確な年齢は知りません。

でも、おそらく私より5歳くらい若いので、たぶんアラフォー世代。

私は48歳、絶賛ミッドライフクライシス中です。

それなのに、不思議なことに話している内容はよく似ていました。

人生の途中で、「このままでいいのかな」と立ち止まる時期は、案外年齢とは関係ないのかもしれません。

誰の心の中にも、ある日突然「人生見直し会議」が始まる。

議長も参加者も自分ひとり。

なかなか責任重大な会議です。

しかも、終了予定日は未定。

私の会議も、まだ閉会のベルは鳴っていません。

 

でも、こうやって誰かと話しながら、「ああ、私だけじゃないんだな」と思える時間があるのは、悪くない。

そんなことを感じた、5年ぶりの夕食でした。

 

           

                 (ナノバナナ画伯作)

 

7月24日、宿題と人事考査と「分かってほしい」の話

令和8年7月24日(金)

 

私の通った小・中学校の夏休みは7月25日からだった。

だから、7月24日という日は、ちょっと特別な日だった。

教室にあるものを、全部持って帰らなければならない日。

計画的に少しずつ荷物を持って帰る、ということができない子どもだったので、毎年、1学期の最終日になると、大量の荷物を抱えて下校していた。

絵の具セット。
習字道具。
上履き。
体操着。

そして、なぜか最後まで学校に置きっぱなしになっている、名前も忘れた何か。

両手いっぱいに荷物を持って、よろよろ歩く。

あれも夏休みの風景だった。

 

そして、7月24日の私には、もうひとつ、毎年恒例の野望があった。

「今年の夏休みこそ、お盆までには宿題を終わらせる」

いや、何なら、

「7月中に全部終わらせて、8月は悠々自適に過ごす」

という壮大な計画。

もちろん、そんな年は9年間で一度もありませんでしたが…

 

毎年、同じような野望を抱き、同じような時期に焦っていた気がする。

それでも、7月24日という日付を見ると、今でもちょっと気持ちが浮き立つ。

明日から夏休み。

何でもできそうな気がする。

三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。

 

そんな私の現在の7月24日は、夏休みどころではない。

今の会社では、ちょうどPerformance Review、人事考査の真っ最中です。

5月に自己評価を書き、
6月に同僚や上司からフィードバックをもらい、
7月に上司との面談。

そんな流れで、昨日、上司との面談がありました。

 

ちなみに、今回の話は「上司に評価されなくて悶々とした」という話ではありません。

むしろ、面談の中で、

「へえ、そうなんだ」

と思ったことの話。

 

彼女は、私の自己評価に影響されたくなかったので、まず自分でフィードバックを準備してから、私の自己評価を読んだらしい。

なるほど。

確かに、そのほうが先入観なく評価できる。

そして、自分のフィードバックを準備し終わってから私の自己評価を読んだところ。

私が「この1年で自分が一番やったこと」として挙げていたことが、彼女の頭の片隅にもなかったらしい。

 

え。

そこ、忘れる?

 

ちょっと面白かった。

というのも、それは私にとって、2年前に入社したときからずっと気になっていたことだったから。

しかも、上司自身も、私が入社したときから「ここは何とかしたいのよね」と言っていた。

去年1年間、私はたぶん、そのことに一番頭と時間を使った。

 

だから、私の中では、

「去年、一番頑張ったことはこれ」

と、かなりはっきりしていた。

 

それが、まさかのノーマーク。

「え、そんなに?」

と、ちょっと笑ってしまった。

 

もちろん、よく考えてみれば分からなくもない。

かなりの裏方作業だったから。

派手な成果が出るわけでもない。

数字が大きく動くわけでもない。

「私、こんなことやりました!」と、毎朝みんなの前で発表するような仕事でもない。

私が黙々とやっていたことを、上司が同じ熱量で覚えているとは限らない。

それはそうだ。

それでも私の中では、去年の一大プロジェクトだったので、

その温度差が、なんだか面白かった。

 

その日の犬の散歩中、ふと考えた。

私にとって「一番」だった理由は、単純に、かけた時間や労力が大きかったからだけではないのかもしれない。

たぶん、それが私にとって一番気になることだった。

私にとって、優先順位の高いことだった。

だから、頭の中で大きなスペースを占めていた。

 

でも、上司にとっても「気になること」ではあったとしても、私ほど「優先順位の高いこと」ではなかったのだろう。

同じものを見ていても、どこに目が留まるかは、人によって違う。

同じ会社にいて、同じ仕事をして、同じ問題を見ていても、

「私はここが一番気になる」

と、

「私はこっちのほうが気になる」

は、普通に違う。

考えてみれば、当たり前のこと。

でも、こういうことって、普段はなかなか気づかないもんです。

自分が気になっていることは、相手も当然、自分と同じ熱量で気にしているような気がしてしまう。

自分が大切にしていることは、相手にとっても大切だと思ってしまう。

だから、相手がそこを見ていないと、

「え、そこ気にならないの?」

となる。

今回の私のように。

 

そして、これって会社だけの話ではないんだろうな、とも思った。

家族や友人との関係でも、きっと同じようなことは起きている。

自分にとっては、ものすごく大切なこと。

自分なりに頑張ったこと。

相手のために、と思ってやったこと。

でも、相手の記憶には、それほど大きく残っていない。

逆に、こちらがすっかり忘れているような小さなことを、相手はずっと覚えていたりする。

人間関係には、それぞれ別々の「重要事項リスト」があるのだろう。

 

会社の場合は、人事考査という仕組みがある。

「あなたはこれを頑張りました」

「私はこれを評価しています」

「私はここを大事だと思っています」

そんなことを、ある意味強制的にすり合わせる機会がある。

だから今回みたいに、

「あら。私たち、同じ1年を過ごしていたのに、見ていた場所がちょっと違ったんですね」

ということが分かる。

 

でも、家族や友人関係では、そんな面談はない。

「では、ここで昨年度のあなたの私への貢献度について振り返ってみましょう」

なんて言い出したら、かなり面倒な人である。

「私は去年、あなたのためにこれだけやりました」

と自己評価シートを提出した日には、次の人事考査を待たずして、関係そのものが終了する可能性もある。

 

人間関係において「私の貢献」を訴えすぎると、ただの鬱陶しい人になる。

関わりたくないヤツ筆頭。

でも、だからこそ、たまにはこういう「認識のズレ」を知る機会があるのも、悪くないのかもしれない。

「私にとって大切だったことが、相手にとっても同じくらい大切だったとは限らない」

ただ、それだけのこと。

それは「分かってもらえなかった」という話ではなくて、ただ、見ている場所や見る熱量がが少し違ったというだけのこと。

そう思うと、今回の「まさかのノーマーク」も、なんだか面白い発見だった。

 

ちなみに彼女が挙げた私の貢献は、私が時間があるときにちょこちょこっとやったことだったり、自分の楽しみに「趣味的」にやったことだったりして、

「え、そこでしたか?!」

と思った。

 

子どもの頃の私は、7月24日になると、

「今年こそ、7月中に宿題を終わらせる」

と思っていた。

その野望は、9年間、一度も実現しなかった。

でも、毎年ちゃんと野望だけは持っていた。

人は、自分の中ではけっこう大事なことを、意外と長いこと覚えているものらしい。

たとえ、隣の人にはすっかり忘れられていたとしても。

 

そして今の私は、宿題の代わりにPerformance Review。

明日から夏休み、ではなく、明日かもまた普通に仕事。

 

それでも、7月24日になると、なんとなく思う。

「さあ、明日からまた頑張ろうかな」と。

……そう思うだけで、実際に7月中に何かを終わらせるかどうかは、また別の話ですけれど。

人は、そう簡単には変わらないのです。

 

 

(チャッピー画伯作)