友人は月300ドル、私は無料。家事代行の話から考えたこと

令和8年8月15日(土)

 

昨日は少し長めの昼休みを取って、ダウンタウンで元同僚とランチに出かけました。

在宅勤務の日に、わざわざ職場から数ブロックのところまで出かけるというのも、よく考えればちょっと不思議な話ではある。

でも、金曜日はなんとなく気持ちに余裕がある。
普段は見ることのない、ダウンタウンの「金曜日の顔」を眺めながらランチをするのも悪くない。

……まあ、いつもと特に変わらなかったけれど。

 

彼女と会うのは、彼女が4月中旬に転職して辞めて以来、初めて。

彼女の新しい仕事の話。
私の5月の一時帰国旅行の話。
そして、もちろん職場のゴシップ(と呼んでいいのか、近況報告と呼ぶべきなのか微妙なところ)。

久しぶりなので話は尽きない。

 

彼女今回の転職でお給料が結構上がったそうだ。

そのおかげで、以前から気になっていた家事代行サービスを始めたという。

隔週だったか、月に2回だったか。
1回150ドル、月300ドル。

 

は一児の母である彼女にとっては、

「マジでこれが一番有意義な300ドルの使い方だわ。」

ということらしい。

家事代行を頼むようになって、生活がかなり楽になったそう。

私はそれを聞いて、思わず食いついた。

 

「月2回のコミットメントで300ドルなら、いい副業じゃない?」

もちろん、家の大きさにもよる。

家中のほこりを払って、掃除機をかけて、必要ならモップもかける。
あとはお風呂とトイレ。

掃除代行のビジネスにするなら、保険やら何やら、素人には見えない経費もあるだろう。
実際に手元に残る金額を時給換算したら、どのくらいになるのかは分からない。

 

でも、それにしても。

「っていうか、それ、私すでに(不定期で)リタイアした年配のご近所さんに無料でやってあげてることなんだけど!」

気がつけば、私はちょっと興奮気味に話していた。

…まぁ、正確に言えば、お金はもらっていない。

掃除をした日は、ご飯をご馳走になったりするので、完全な無料奉仕といういわけでもない。

お金の代わりに、温かいご飯。

これはこれで、悪くない取引だと思っている。

 

同じ「掃除」という行為でも、立場が違えば見える景色がまったく違う。

彼女にとっては、月300ドルを払って家事を外注することで、時間と気力を買っている。

私にとっては、誰かの家を掃除することが「ちょっとした親切」であり、そのお礼にご飯をご馳走になる。

 

使役する側と、される側。

同じ掃除なのに、発想がこんなにも違うとは。

そんなことを考えながら食べた、金曜日のサンドイッチ。

 

ちなみに私は、掃除をしてあげているご近所さんから、一度もお金をもらったことはない。

……でも、掃除の後に出てくるご飯は、けっこう楽しみにしている。

私は、お金ではなく、別の通貨で働いているのだろう。

 

それでも私は、家事代行の話を聞いて、

「月2回で300ドルなら、いい副業じゃない?」

と考えていた。

 

                 チャッピー画伯作

 

「出社義務」より強かったもの。ポートランドの熱波

令和8年8月9日(日)

 

ポートランドの夏は、基本的に過ごしやすい。

「ポートランドの夏は快適ですよ」なんて言うと、ただの自慢に聞こえるかもしれない。

たしかに、湿度が低く、カラッとしていて、朝晩は涼しい。日本の夏を知っている身としては、「夏って、こんなに人間に優しい季節だったっけ」と思うこともある。

 

ただし。

熱波が来なければ、の話。

ひとたび気温が上がると、話は少々変わってくる。

 

というのも、ポートランドは暑さ対策が日本ほど充実していない。

まだ冷房のない家も珍しくないし、冷房があったとしても、我が家のような「ないよりはマシ」タイプだったりする。

我が家の冷房は、室外機と一体になったタイプ。

稼働中はそれなりにうるさい。

そして、稼働している間は寒いくらいなのに、設定温度に達して止まると、次に動き出すまでに「まだ大丈夫」と判断されているのか、こちらが「いや、もう十分暑いです」と訴えたくなる頃まで再稼働しない。

温度調節というものを、あまり得意としていない。

しかも、部屋全体をまんべんなく冷やすというより、冷風の当たるところだけが妙に涼しい。

なんというか、安いモーテルにありそうな冷房。

「ないよりマシ」とは、まさにこのこと。

 

日本でよく見るダイキンや三菱のような、静かで、部屋全体をじわっと快適にしてくれるエアコンは、新築のアパートなどでは少しずつ見かけるようになってきた。

ただ、あくまで私の個人的な印象だけれど、まだまだ「冷房にそこまでお金をかけられる人のもの」という感じがする。

10年ほど前に我が家も設置を検討して、見積もりを取ったことがある。

そのときで工事・設置費込みで5,000ドルから、だったと記憶している。

10年前で5,000ドル。

今はいったいいくらになるのだろう。

考えるだけで、こちらの体温まで少し上がりそう。

 

そんなポートランドの夏。

熱波が来ると、俄然ありがたくなる場所が職場である。

普段は「オフィス、寒いんですよね」と文句を言っている。

上着を羽織り、ひざ掛けをかけ、「もう少し温度を上げてもらえませんか」と言っている。

それなのに、熱波が来た途端、その寒さがありがたい。

いや、ありがたいどころか、もはや文明の恩恵。

神様からの贈り物。

 

しかも、冷房代を自分で払わなくていい。

これも大きい。

我が家でエアコンをつければ、快適さと引き換えに電気代という現実がやってくる。

会社なら、涼しい。

仕事もできる。

そして電気代は、少なくとも私個人の請求書には載ってこない。

最高じゃないか。

 

ちなみに、私の職場は火曜日と水曜日が出社義務の日。

普段は、この「出社義務」というルールがなかなか面白い。

何かしら理由をつけて出社しなかったり、なんとなくうまく誤魔化して在宅勤務に持ち込んだり。

「出社義務」と言われているのに、どこか「ルールは破るためにある」とでも言いたげな空気が、ないこともない。

 

ところが先週。

猛暑注意報が出ていた火曜日と水曜日。

いつもよりオフィスの人口密度が高かった。

「あれ? 今日、こんなに人いたっけ?」

と思うくらい。

いつもなら出社したがらない人たちが、誰に言われるでもなく、続々と出社してくる。

出社義務だからではない。

涼しいから。

理由が明快。分かりやすい。

 

会社のルールにはあれほど自由な解釈を加えるのに、気温には誰も逆らわない。

人間、自分が感じる不快感には正直です。

マザー・ネイチャー最強である。

 

普段は「家で仕事できるんだから、わざわざ会社に行かなくてもいいじゃない」と思っている人たちが、熱波が来た途端、自発的にオフィスへ向かう。

会社としては、まさかの「猛暑による出社率アップ」。

働き方改革も、ハイブリッド勤務も、社則も、上司のお願いも。

最終的に人を動かすのは、室温のようです。

 

そう考えると、先週のオフィスは、仕事場というより避暑地だった。

そして私は、普段なら「寒い、寒い」と文句を言っている冷房に感謝しながら仕事をした。

人間というのは、勝手なものである。

でも、たぶん会社のほうも同じことを思っている。

「暑い日は、みんな素直で助かるな」と。

 

これ、アメリカの職場あるある……なのかしら。

 

             

           普段はお腹が冷えるのを嫌うお嬢さん。

     先週ばかりはさすがに冷却ジェルシートにお世話になっておりました。

 

5年ぶりの連絡と、人生の途中で立ち止まる時間

令和8年8月2日(日)

 

先日、以前通っていた習い事で一緒だったTさんから久しぶりにメッセージが届きました。

友人と呼ぶには少し照れくさいけれど、会えば自然に話ができる。習い事のイベントなどで顔を合わせれば、お互いの近況をなんとなく知っている。

そんな、ちょうどいい距離感の人でした。

最後に会ったのは、たぶんコロナ禍の少し前。

気がつけば、5年近く会っていませんでした。

 

久しぶりの連絡ということで、近況報告でも届いたのかなと思って開いたメッセージ。

そこに書かれていたのは、思いがけない言葉でした。

「近いうちに離婚することになりそう。」

 

思わず、えっ、と声が出ました。

というのも、私の中での彼女とご主人の印象は、とても仲のよい夫婦だったからです。

ご主人は習い事関係のイベントにも参加していて、ふたりでいる姿を何度も見ていました。

私の目には、穏やかで仲睦まじいカップルに映っていました。

 

もちろん、人の家庭のことなんて外から見えるものがすべてではありません。

頭では分かっています。

 

人間というのは面白いもので、分からないことがあると、つい理由を探したくなるらしい。

実際に会うまでの間、私は勝手に想像していました。

きっと、あのことが原因だったのかな。

もしかしたら、以前のあの出来事が積み重なったのかな。

……完全に部外者なのに、頭の中では勝手に夫婦問題調査会議が開催されていました。

議長も私。

しかも、証拠は何ひとつありません。

 

先日、久しぶりに会って、一緒に夕食をしました。

そこで話を聞いてみると、私の推理は見事なくらい外れていました。

それはもう、「何を推理していたの?」というくらいに。

 

やっぱり、人のことは分からないものです。

いや、正確には、人は外から見える部分だけでは決して分からないものなのだと思います。

 

彼女は現在、離婚に向けて別居中。

その時間を、自分自身を見つめ直す期間にもしたいと話していました。

そして、少し疲れた様子で、

「以前の自分が何を好きだったのかも思い出せない。」

と言っていました。

 

その言葉を聞いたとき、私はすぐには返事ができませんでした。

「大丈夫だよ」と簡単に言える話ではないし、「分かるよ」と言ってしまうのも違う気がしたからです。

彼女が経験していることの重みは、私には想像することしかできません。

ただ、その言葉は心に残りました。

 

以前、私は職場の福利厚生で利用できるカウンセリングを受けたことがあります。

私は人事の仕事をしていて、福利厚生の制度を担当する立場でもあります。

社員に案内している制度だけれど、実際に利用するとどんなものなのだろう。

そんな興味もあり、一度自分自身が利用者になってみようと思ったのです。

そこでカウンセラーから

「あなたはWant(自分がしたいこと)よりも、Should(こうするべき、こうあるべき)で話すことが多いですね。」

と言われました。

その言葉は、思った以上に私の中に残りました。

 

考えてみれば、私は「やりたいこと」よりも、「やったほうがいいこと」を優先して考える癖があったのかもしれません。

もちろん、Shouldが悪いわけではありません。

仕事でも生活でも、責任を持つことは大切です。

でも、ときどき「私は本当はどうしたいんだろう」と、自分のWantに耳を傾ける時間も必要なのだと思います。

 

それ以来、小さなことでも意識するようになりました。

今日は何を食べたいのか。

どこへ行きたいのか。

これからどんな時間を過ごしたいのか。

そんなところから。

 

ちなみに、そのカウンセリングはその後続きませんでした。

というのも、ある日カウンセラーに

「前回言っていただいたことがすごく心に残ったので、これからはWantを意識してみたいと思います。」

と伝えたら、彼女は、さらりと

「自分が何に集中したいか見つけられたのなら、もうカウンセリングは必要ないわね。」

と。

……まさかの、先生からの卒業宣言。

 

もう少し通うつもりだった私は、少しだけ拍子抜けしました。

でも、今思えば、とても潔い終わり方だったのかもしれません。

答えをもらいに行ったつもりが、自分で考えるきっかけをもらって帰ってきた。

そんな感じでした。

 

Tさんの正確な年齢は知りません。

でも、おそらく私より5歳くらい若いので、たぶんアラフォー世代。

私は48歳、絶賛ミッドライフクライシス中です。

それなのに、不思議なことに話している内容はよく似ていました。

人生の途中で、「このままでいいのかな」と立ち止まる時期は、案外年齢とは関係ないのかもしれません。

誰の心の中にも、ある日突然「人生見直し会議」が始まる。

議長も参加者も自分ひとり。

なかなか責任重大な会議です。

しかも、終了予定日は未定。

私の会議も、まだ閉会のベルは鳴っていません。

 

でも、こうやって誰かと話しながら、「ああ、私だけじゃないんだな」と思える時間があるのは、悪くない。

そんなことを感じた、5年ぶりの夕食でした。

 

           

                 (ナノバナナ画伯作)

 

7月24日、宿題と人事考査と「分かってほしい」の話

令和8年7月24日(金)

 

私の通った小・中学校の夏休みは7月25日からだった。

だから、7月24日という日は、ちょっと特別な日だった。

教室にあるものを、全部持って帰らなければならない日。

計画的に少しずつ荷物を持って帰る、ということができない子どもだったので、毎年、1学期の最終日になると、大量の荷物を抱えて下校していた。

絵の具セット。
習字道具。
上履き。
体操着。

そして、なぜか最後まで学校に置きっぱなしになっている、名前も忘れた何か。

両手いっぱいに荷物を持って、よろよろ歩く。

あれも夏休みの風景だった。

 

そして、7月24日の私には、もうひとつ、毎年恒例の野望があった。

「今年の夏休みこそ、お盆までには宿題を終わらせる」

いや、何なら、

「7月中に全部終わらせて、8月は悠々自適に過ごす」

という壮大な計画。

もちろん、そんな年は9年間で一度もありませんでしたが…

 

毎年、同じような野望を抱き、同じような時期に焦っていた気がする。

それでも、7月24日という日付を見ると、今でもちょっと気持ちが浮き立つ。

明日から夏休み。

何でもできそうな気がする。

三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。

 

そんな私の現在の7月24日は、夏休みどころではない。

今の会社では、ちょうどPerformance Review、人事考査の真っ最中です。

5月に自己評価を書き、
6月に同僚や上司からフィードバックをもらい、
7月に上司との面談。

そんな流れで、昨日、上司との面談がありました。

 

ちなみに、今回の話は「上司に評価されなくて悶々とした」という話ではありません。

むしろ、面談の中で、

「へえ、そうなんだ」

と思ったことの話。

 

彼女は、私の自己評価に影響されたくなかったので、まず自分でフィードバックを準備してから、私の自己評価を読んだらしい。

なるほど。

確かに、そのほうが先入観なく評価できる。

そして、自分のフィードバックを準備し終わってから私の自己評価を読んだところ。

私が「この1年で自分が一番やったこと」として挙げていたことが、彼女の頭の片隅にもなかったらしい。

 

え。

そこ、忘れる?

 

ちょっと面白かった。

というのも、それは私にとって、2年前に入社したときからずっと気になっていたことだったから。

しかも、上司自身も、私が入社したときから「ここは何とかしたいのよね」と言っていた。

去年1年間、私はたぶん、そのことに一番頭と時間を使った。

 

だから、私の中では、

「去年、一番頑張ったことはこれ」

と、かなりはっきりしていた。

 

それが、まさかのノーマーク。

「え、そんなに?」

と、ちょっと笑ってしまった。

 

もちろん、よく考えてみれば分からなくもない。

かなりの裏方作業だったから。

派手な成果が出るわけでもない。

数字が大きく動くわけでもない。

「私、こんなことやりました!」と、毎朝みんなの前で発表するような仕事でもない。

私が黙々とやっていたことを、上司が同じ熱量で覚えているとは限らない。

それはそうだ。

それでも私の中では、去年の一大プロジェクトだったので、

その温度差が、なんだか面白かった。

 

その日の犬の散歩中、ふと考えた。

私にとって「一番」だった理由は、単純に、かけた時間や労力が大きかったからだけではないのかもしれない。

たぶん、それが私にとって一番気になることだった。

私にとって、優先順位の高いことだった。

だから、頭の中で大きなスペースを占めていた。

 

でも、上司にとっても「気になること」ではあったとしても、私ほど「優先順位の高いこと」ではなかったのだろう。

同じものを見ていても、どこに目が留まるかは、人によって違う。

同じ会社にいて、同じ仕事をして、同じ問題を見ていても、

「私はここが一番気になる」

と、

「私はこっちのほうが気になる」

は、普通に違う。

考えてみれば、当たり前のこと。

でも、こういうことって、普段はなかなか気づかないもんです。

自分が気になっていることは、相手も当然、自分と同じ熱量で気にしているような気がしてしまう。

自分が大切にしていることは、相手にとっても大切だと思ってしまう。

だから、相手がそこを見ていないと、

「え、そこ気にならないの?」

となる。

今回の私のように。

 

そして、これって会社だけの話ではないんだろうな、とも思った。

家族や友人との関係でも、きっと同じようなことは起きている。

自分にとっては、ものすごく大切なこと。

自分なりに頑張ったこと。

相手のために、と思ってやったこと。

でも、相手の記憶には、それほど大きく残っていない。

逆に、こちらがすっかり忘れているような小さなことを、相手はずっと覚えていたりする。

人間関係には、それぞれ別々の「重要事項リスト」があるのだろう。

 

会社の場合は、人事考査という仕組みがある。

「あなたはこれを頑張りました」

「私はこれを評価しています」

「私はここを大事だと思っています」

そんなことを、ある意味強制的にすり合わせる機会がある。

だから今回みたいに、

「あら。私たち、同じ1年を過ごしていたのに、見ていた場所がちょっと違ったんですね」

ということが分かる。

 

でも、家族や友人関係では、そんな面談はない。

「では、ここで昨年度のあなたの私への貢献度について振り返ってみましょう」

なんて言い出したら、かなり面倒な人である。

「私は去年、あなたのためにこれだけやりました」

と自己評価シートを提出した日には、次の人事考査を待たずして、関係そのものが終了する可能性もある。

 

人間関係において「私の貢献」を訴えすぎると、ただの鬱陶しい人になる。

関わりたくないヤツ筆頭。

でも、だからこそ、たまにはこういう「認識のズレ」を知る機会があるのも、悪くないのかもしれない。

「私にとって大切だったことが、相手にとっても同じくらい大切だったとは限らない」

ただ、それだけのこと。

それは「分かってもらえなかった」という話ではなくて、ただ、見ている場所や見る熱量がが少し違ったというだけのこと。

そう思うと、今回の「まさかのノーマーク」も、なんだか面白い発見だった。

 

ちなみに彼女が挙げた私の貢献は、私が時間があるときにちょこちょこっとやったことだったり、自分の楽しみに「趣味的」にやったことだったりして、

「え、そこでしたか?!」

と思った。

 

子どもの頃の私は、7月24日になると、

「今年こそ、7月中に宿題を終わらせる」

と思っていた。

その野望は、9年間、一度も実現しなかった。

でも、毎年ちゃんと野望だけは持っていた。

人は、自分の中ではけっこう大事なことを、意外と長いこと覚えているものらしい。

たとえ、隣の人にはすっかり忘れられていたとしても。

 

そして今の私は、宿題の代わりにPerformance Review。

明日から夏休み、ではなく、明日かもまた普通に仕事。

 

それでも、7月24日になると、なんとなく思う。

「さあ、明日からまた頑張ろうかな」と。

……そう思うだけで、実際に7月中に何かを終わらせるかどうかは、また別の話ですけれど。

人は、そう簡単には変わらないのです。

 

 

(チャッピー画伯作)

ポートランドのジャズフェスで思った、人間は自然が好きということ

令和8年7月18日(土)

 

新しいオフィス・アシスタントが入社しました。

もともといた子が急きょ長期休暇を取ることになり、そのかわりに来てくれた方です。

 

彼女が、しきりに言うことがあります。

「この職場、日光が入ってきていいですね。」

そのたびに私は「そうですね」と返していたのですが、何度目かに、ふと思いました。

そう言えば、私も、この会社に入ったとき、いちばん最初に感動したのがそこだった。

太陽の光を浴びながら仕事ができること。

毎日そこにいると、それが当たり前になってしまうものです。

ありがたさまで、窓の景色に溶け込んでしまう。

新人さんのおかげで、忘れていたことを思い出しました。

 

せっかくだから、自分のデスクで「この職場の好きなところ」を考えてみました。

人間関係ではなく、建物そのもの限定です。

まずは、太陽の光が入ること。

そして、生きた植物があちこちに置かれていること。

もちろん葉っぱが少し茶色くなっているものもあります。でも、それも生きている証拠。完璧じゃないところが、ご愛嬌です。

最後は古い建物なので、窓が開けて、外の風が入ってくること。

(たった今、グーグルで調べてみたら、1910年建築の建物でした。)

 

太陽

植物

 

考えてみると、どれも自然のものばかり。

便利なものでも、おしゃれな設備でもありません。(←こういったものも勿論、否定はしません。大好きです。)

ニンゲンって、案外そんなもので機嫌よく暮らせる生き物なのかもしれない。

 

そして昨日の仕事後。

年に一度、ポートランド近郊からうちの近所にたくさんの人が集まる、橋の下の公園のジャズフェスティバルへお嬢さんと行ってきました。

今年は20℃前後の気持ちのいい晴天。

    

            

ステージでは音楽。

芝生では、それぞれが好きな時間を過ごしています。

踊る人。

寝転ぶ人。

子供たちは、音楽より走る方が忙しそう。

みんな驚くほど自由です。

「ちゃんと聴かなきゃ」という空気がどこにもない。

それなのに、ちゃんとみんな楽しそう。

 

        

眺めながら、

音楽が人を集めているというより、「気持ちのいい外」が人を集めているのかもしれない、

と思いました。

そこへ、音楽が流れている。

だから、なおさら居心地がいい。

そんな順番なのかもしれない。

 

帰る前、前の席を見ると、年配のカップルが手をつないで音楽を聴いていました。

          

何か特別なことをしているわけではありません。

夕方の光を浴びて、

風が吹いて、

好きな音楽が流れて、

隣には大切な人がいる。

それだけで十分なんだな、と、その後ろ姿が教えてくれました。

 

           

             こちらは私の大切な相棒。

           お嬢さんも公園の匂いを嗅ぎまわり、

            色んな人に声をかけてもらって

               楽しんでいました。

 

新人さんが思い出させてくれた「太陽の光が入る職場」

そして、橋の下の芝生に集まるたくさんの人たち。

別々の出来事が、最後は同じところへ辿り着きました。

ニンゲンって、結局、日なたが好きなのね。

 

 

 

昔の「苦手」が少しだけほどけた話

令和8年7月9日(木)

 

Netflixで何となく見始めた『地獄に落ちるわよ』。

細木数子さんの人生をもとにしたフィクションドラマです。

 

www.youtube.com

 

正直に言うと、私は彼女のことをほとんど知らない。テレビで活躍していた頃には、もうアメリカに住んでいたので、「顔と名前は知っている」という程度だった。

 

それでも、一つだけ妙にはっきり覚えている場面がある。

当時、「野球人気が落ちている」という相談者に対して、細木さんはこう言った。

「とにかく金だ。」

サッカー人気が上がり、いい選手がどんどんMLBへ行ってしまう。それなら選手の給料を上げればいい。いい選手が日本に残れば試合は面白くなるし、視聴率も上がる。将来野球選手を目指す子どもも増える、と。

 

そのときの私は、「いや、そんなのみんな分かっとることやん」と思った。

理屈は正しい。

でも、一番難しい「そのお金をどう生み出すのか」という部分には触れていない。答えとしては少し乱暴に聞こえて、それ以来、なんとなく苦手な印象を持っていました。

「それができたら苦労しないよ」というツッコミだけが、頭の中に残ったのです。

 

そんな記憶しかないまま見始めたドラマだった。

あとで知ったのだけれど、細木さんを演じた戸田恵梨香さんは、ご遺族と街で偶然会った際、「よくドラマ化を許しましたね」と言われたそう。

世間では、それだけ厳しく描かれている作品という受け止め方なのだろう。

 

でも、私が見終わって感じたのは少し違った。

「好きになった」とまでは言えない。

ただ、「勢いだけで人をねじ伏せる人」という、昔から持っていた薄い印象が、少しだけほどけました。

 

印象に残ったセリフがある。

「あなたの書いた小説が面白いのは、私の人生が面白いからよ。」

もちろんドラマのために作られた言葉なのだと思う。

でも、不思議なくらい説得力があった。

 

人を惹きつけるのは、話し方のうまさやテクニックだけではないのかもしれない。

その人がどんなふうに生きてきたのか。

その積み重ね自体が、物語になる。

近くで見れば苦手だった人でも、時間や物語というフィルターを通すと、違う輪郭が見えてくることがある。

 

もちろん、これは事実をもとにしたフィクションです。

あのセリフも脚本家が生み出したものだし、私が「この人にはこういう魅力もあったのか」と感じた部分だって、脚本や演出の力なのかもしれない。

 

ご遺族の「よくドラマ化を許しましたね」という言葉も、裏を返せば、本当の細木数子さんとドラマの細木数子さんには、少なからず違いがあるということなのだろう。

結局、どこまでが事実で、どこからが創作なのかは分からない。

 

でも、それでいい気もする。

ドラマを見終えたあと、昔抱いていた苦手意識が、ほんの少しだけ軽くなった。それは事実だから。

人の印象って、案外しぶとい。

でも、ときどき拍子抜けするくらい、あっさり更新されることもある。

その相手が、一度も会ったことのない相手だったとしても。

 

そして今回、私が一番強く思ったこと。

日本のドラマ、やっぱり面白い。

 

 

48歳の気づき。買わなくても困らなかった。

令和8年7月4日(土)

 

2025年は、生まれて初めて手術を受けるところから始まりました。

お嬢さんも何かと検査が必要なお年頃になり、それに加えて台所ではカビ問題が発覚。気づけば、そこから始まった台所DIYプロジェクト。

 

「これでようやく落ち着くかな」と思ったら、今度は住んでいるコンドミニアムの管理組合(HOA)から特別賦課金のお知らせ。そして積み重なっていくお嬢さんの医療費。

 

貯金というのは、積み上げるのにはずいぶん時間がかかるのに、出ていくときの足の速さときたら見事です。

 

2025年から家計簿をつけ始めました。

去年は「観察期間」ということにして、数字を眺めるだけ。

2026年になっても、「まあ、もう少し観察してから反省しよう」と、ずいぶん研究熱心な姿勢を貫いていたのですが、どうもそうとも言っていられない状況になりつつある今。

さすがに、そろそろ反省する番らしい。

 

そんな中で迎えた、アマゾン・プライムデーセール。

アメリカでは日本より一足早く、6月23日から26日まで開催されました。

画面を開けば誘惑だらけ。

でも今回は、前から買うと決めていたもの以外は買わずに完走です。

今までの私なら、きっと違った。

昨日まで存在すら知らなかった商品なのに、「あなたへのおススメ」で「あら、便利そう」と思ったが最後。気づけば頭の中では「生活の質を上げる必需品」に昇格している。

マーケティングって、本当に仕事ができる。

 

一方で、普段の食料品の買い出し。

私は買い忘れ防止のために買い物リストを作っています。

……もっとも、リストに書き忘れることも珍しくないのですが (*´-`)

そのリストは、「買い忘れないため」のもの。

なので、お店でセール品を見つけたり、「これ良さそう」と思ったりすると、予定になかったものまでカゴへ入れることがよくあります。

どうせ食べるものだし。

使うものだし。

そう思って、あまり深く考えずに買っていました。

 

ところが先週末は少し体調が悪くて、とにかく早く帰りたかった。

だから買ったのは、リストに書いてあったものだけです。

結果。

今週一週間、食生活は何ひとつ困りませんでした。

もちろん、「あれも食べたかったな」という小さな不満はあります。

でも、それだけ。

我が家には、まだまだ食材のストックが眠っています。

多少の不満はあっても、生活には何の支障もない。

この当たり前の事実が、思った以上に新鮮でした。

もしかしたら、多くの人には当たり前のことなのかもしれません。

でも私にとっては、小さな発見。

 

広告が作り出した「必要」も、買い物リストに最初から載っていなかったものも、あとからちゃんと使ったとしても、「なくても困らなかったもの」。

つまり、不要だったのかもしれない。

そんなことに今さら気づいて、一人で妙に興奮しています。

 

今日はアメリカ建国250周年のお祝いということで、ちゃんと「花束」と買い物リストに書き込んでから買い物へ行ってきました。

花は予定どおり購入。

予定外のものは、なし。

 

さて、この気づき。

果たして来週の私も覚えているでしょうか。

一番油断ならないのは、アマゾンでもスーパーでもなく、「これくらい、いいか」とつぶやく未来の私なのです。

 

                 チャッピー画伯作